シンポジウムの感想

自主規制としてこんなことをやっている、ていうのは普通に面白かった。あとテクノロジーの進歩による表現の変化とか。カラーだと黒塗りじゃなくてモザイクが多いらしいですよ! データ入稿の遅さによるチェック時間の減退とかよりも、やはり工学的な変化によって表現が変質を受けるという点に興味があるようです私は。

パネラーにせよ参加者にせよ、「俺らは」自主規制とか守っているぜ、というグループという感じで、ああしっかりやってるんだな、とか思いながら、その一方で問題になっているような規制とかは余り重視していないグループもあって(そういう人らは今回参加してないだろうて)、そっちに対して「自覚を促す」とかだけでいいんだろうかという疑問があって。

前者のグループも後者のそれも同人誌活動家という言葉で括られるとき、「後者のあいつらは同人屋じゃない無法者で金儲け主義でクリエイターではなくうんぬん」とかゆっても仕方が無いわけで、そこで同人誌という言葉を『我々』がどう引き受けるかという問題において、伊藤さんの仰る利害調整という言葉やそれに順ずるシステムが有効に機能するわけで、とまれ、重要なのはそうした自主規制の言葉が届かない同人屋の人々も含んだ形での利害調整のシステムじゃないのかしら。もちろん、対外的に『我々』の自主規制のアピールうんぬんももちろん大事だけれど、そういう人たちに自主規制の言葉を届けようとしても届かない人は結局出てくるだろうし、高い意識を持って行動しようとかコンセンサスとか、内面的な問題だけに還元するのはあれやん?

まぁ、利害と単純に言ったところで結構観念的なレベルでの話に目が向いてしまう人が多く、そういう方向性じゃ解決策は一向に出てこず、有害/無害論者のお互いが主張しあうだけになる傾向にあるようなので、まー、表現の自由とかではなくもっと別のパースペクティブで話はできないんですかねぇ、と思った(受け売りの部分もあるが極力抑えたつもり)。

第二部でパネラーのどなたかが『欲望』とか言ったとき、ラカニアンであるところの斎藤先生がどう突っ込んでくれるのかとワクワクしていたのですが、突っ込まれませんでした(場の空気と時間制限を考えれば当然です)。初めて見る斎藤先生はダンディーでした。

斎藤先生関係で補足。ゲームのネガティヴな影響がほとんどない、とすれば、シリアスゲームのポジティヴな影響もほとんどなかったりするのだろうか、といったような感じの疑問に事前にお答えするコーナー。ポジに関してはhttp://www.eurekalert.org/pub_releases/2006-08/uoia-sov081706.phpといったオンラインゲームの社交性とか、ネガに関してはhttp://www.abc.net.au/science/news/stories/s1692920.htmといったゲームと人種差別といった、ゲームの内容より少しメタなレベルでのゲームの影響力に関しての研究はちゃんと今も行われてるみたいです。

あと、個人的にはネロとパトラッシュが死ぬところの天使に黒塗りは是非入れてほしい。できるだけ精巧であればなお良し。天使の角度によって黒塗りの角度と大きさも変わるってグルグルするのとか。

5月19日(土)

「ネットを捨てて外に出よう」「ただし外とは図書館か全裸の二択」「夜の路傍や図書館とかで全裸になりたくなるときがある」「ここなら誰も見ていないし、裸になっても大丈夫に違いないという確信がふと訪れる」「エロゲーにおいて、図書館での性行為はまず見つからないように」「そして今俺は裸で本と向き合っている実感が」「だったら図書館で己の全てを露出せよ」「留保なき露出の肯定を!」「留保とか言ってる時点で留保してるから!!」みたいなやりとり。なるほど、現実はエロゲーに忠実であり、あるべきなのだ。決して逆ではない。
人と会ったときは毎回のことではあるけれど、自分のコミュニケーションスキルに対して絶望する。さすがに10回以上のミスは多すぎる。
しかしながら、是非リアルでももっとバトルしていきたい、とも思う。『後の傍迷惑である』。良ければまたお誘いください。

気が向けば追記するかも。
ああ、あと、イメージどおりとか言われてすごい悩んだ。なんで悩むのかというのもいまいち解らないのだけれど。

追記1

タグの話。「何故カリカリモフモフカリカリモフモフであるのか。どのような基準でタギングするなのか」「我々他人からすると、きっとこういう意味だ、と推定する面白さも」「どういう意味なのかって検索しちゃった経験」「自分でも解らなくなるときってないですか」「いずれ自タグと己との闘いになる」。
なお、「私的言語は不可能である」「ウィの人の使っちゃ駄目ー!」と一人内心で盛り上がってました。

追記2

テクノロジーの進歩により、うんぬん。

テキスト量の長大化可能により、ハロワのようなstream of consciousnessの手法を採用したものが作られるようになった(そしてそれがプレイしてみて面白いというわけではない)、というthen-dさんの見解には、なるほど、と首肯。「テクノロジーの進歩により、CGムービーが挿入され、映画のようなゲームがうんぬん」ていう議論より、そういう話題に興味があるということはきっと恐らく、自分は「テクノロジーの進歩により新しい表現が生まれた」という言明よりも、もっと他の種類の言明の方が好みなのだろう。

追記3

結局なんかいつも真ん中の配置に居た。空間的な配置が会話の指揮権を決定するような恐怖を常に味わう。教室の一番前の席の人は真面目にならざるを得ないように、空間的配置は役割を決定する。

少人数だと中央などという配置が存在しないため楽なのだろうか。

追記4

はてなID所持者がほとんどだった現状から。「はてなは使いやすいので」「プロバイダごとに特徴ありますよね。はてな住民の特徴、yaplogに集まる声優ブログ、livedoorブログの住人の共通点……」「ブログのサーバによる住み分けが行われている現状は何故か」「そしてそんな議論をするのはてな住民しかいない」「住み分けですねぇ」。

追記5

学術的な学会の話から。「では日本ネットウォッチ学界を作るなら」「会長や理事はあの人やあの人」「会長や理事が学会に来なさそう!」「むしろ学会の様子をウォッチしてブログにアップするよ!」「それはそれで!」
できたら普通に楽しそう。「きっと誰も来ない〜♪」みたいなパロ音楽がふと頭に浮かんだ。

追記6

「ニュースサイトとかでリンクされてる文章を見ているとどうにもむかつくときがあるんですが」「見る自分が悪い」。ごもっともです。

追記7

「最近ネットで面白い文章が少ないんですが」「自給自足しろ」。ごもっともです。

追記8

「コメント入れたらすぐにコメント返してくれる時期があって、何をやっている人なんだろうと思った」「学生です」。大学は授業自体は少ないから暇なときは暇です。ただアサインメントやリーディングが多いので、忙しいときは忙しいです。他、例えばエッセイのアサイメントがあるときはよくパソコンの前に座っていて、すぐにコメントが返せる仕組みになっております。

追記9

私が最年少かと思ったら、意外にも17歳が多くてびっくり!

追記10

上に書いた「現実はエロゲーに忠実であり、あるべきなのだ。決して逆ではない」って字面だけ見たら非常にやばい言葉ですね。

5月18日(金)

flurryのお兄ちゃんが逐一恰好良かったです。ずばっと斬り込まれました。年長者の丸め込み、と謙遜されてますが、丸め込みじゃなく斬り込み、と言うほうがいいと思います少なくとも私にとっては。仮に丸め込みであるにせよ、そういうのにも答えられないと自分は駄目になると思う。お兄ちゃんの一問につき、妹が「ぎゃー」「ええー?」「はわわー」「ええと…」みたいに悩んで真摯に答えようと努力することは、妹であることへの義務であろうから。
色々とこれからの考えるべき点への示唆をいただいたようなそんな感じでした。

イーガン『ひとりっ子』

美少女ゲームの選択肢システムによる分岐の存在への恐怖、という感じで再読するのでした。

「誰もかも不幸になっちゃいけないんだ。それはどの私(、、、)すらも」。ゲームの主人公がそれぐらいの矜持を持っていれば楽しい。

そしてその後に柄谷行人の『交通について』を読んで随分と愉快に。「小林秀雄は偶然性を恐怖しているのだ」(柄谷行人、『差異としての場所』、p. 16)。あとは可能性の事後性についてとか。

らき☆すたの歌詞

機会あって『らき☆すた』OP、『もってけ!セーラーふく』を視聴することができた。正直よくわからなかった。

例えば歌詞は文にさえならない単語の羅列である。数人のキャラがそれぞれ自分勝手に喋っているのであればそういう(意図的な)ものとして理解可能であろう。実際途中で「各人が思い思いに喋る」部分は挿入されていたが、それに対してはポリフォニー性とか言っておけば、ああなるほどね、みたいな感じになる。しかし他の部分はどうか。『らき☆すた』の場合は何人かの少女らが常に同じ歌詞を歌い続ける。あたかもそれに意味があるかのように。しかしどう聞いても単語ばかりであり、意味的な繋がりも音韻的な繋がりも強固ではなく、意味伝達を放棄したような思いつきの単語の羅列にしか聞こえない。そんな歌詞を、何故皆で同じ音域で歌うのか。

類似した歌詞として、近くではコードギアスのOPであった『解読不能』が挙げられるかもしれない。しかしあれはあれなりの解読しやすさがあったと思うのだ。例えば夏葉さんが解説していたような方法で。

もちろん、連続した単語しか呟けないような、ある失語状態に陥る精神状態があることは解る。どこかのロックでも似たような試みはしているかもしれない。でもそこには一種の必死さがあったはずだ。叫ぶとか、呟きとか、そういう表出の形でその必死さは現れるものだと思う。でも、『らき☆すた』の彼女らの声はあれほどまで明るい。その理由が解らないから、こうした仮想ロックとの類似性から解釈することもほとんど不可能だと思われる。

らき☆すた』の場合はいまのところ理解のきっかけをつかめない。例えば「そうした散漫とした単語によるコミュニケーションが現代の女子高生のリアルな会話なんだよ」という理由付けも可能だろうけれど、いやそーじゃねーだろ、と思う。みんなで一緒に歌えばなんでも楽しい、というわけでもなかろう。

まぁ、女の子数人が楽しそうにハモってるのを聞くだけで俺のような視聴者は幸せになれるので、そこに可愛い女の声があるというだけで、幸せの理由としては十分なのかもしれない。俺が幸せになれるような歌詞に意味なんて必要ないのだ。いやそもそも言葉である必要すらない。歌詞を聞き取る必要なんて全くないし、歌詞カードを書く意義すらもない。歌声は音であり、その音に意味を求めることに価値があるのだろうか。まるで、(意味のある)歌詞を求めた時点で負け、というゲームをけしかけられているような感覚だ。それはつまり、よくわからないのが正しいと言われているような、そんな。

だったら、ただ可愛い女の子の声だけがあればいい\

天気と占いの実用性

この前携帯を買ったとき、「画面に表示されるのは占いがいいですか、天気がいいですか」と店員さんに問われた。これにも驚いて言葉に詰まったので、あのときふと考えたことをメモしておこう。

驚きの原因は、天気と占いとが同列に語られていることにだった。そこでは二つの選択肢が与えられているが、しかし、選択肢自体が二つまで絞られている。大澤真幸なら選択前提と言うかもしれないそこで(『電子メディア論』など参照)、どうして天気と占いという選択に絞られているのかという疑問が湧いた。

もちろん、朝のニュース番組で天気と占いが報じられていることは知識としては知っている。その類似性からして、携帯電話に天気と占いの選択肢が与えられるのも当然だという向きもあろう。だがニュース番組の場合と今回の携帯の場合とは話が少し違う。なぜなら前者が非排他的関係にあるのに対して、後者は排他関係にあるから。「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という有名な夏目漱石の言葉があるが、携帯においては「占いと天気がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」。当然だが選べるのはどちらか一方であり、番組の流れの中で占いと天気が連続的に報じられるのとは話が違うというわけだ。

天気と占いとが並べられて論じられることに対する違和感の背後には、私自身の偏見とも言うべき、天気は実用的であり占いは実用的ではないというbeliefがあるのは確かだろう。「画面に表示されるのはTOPIXがいいですか、為替の値動きがいいですか、天気がいいですか」というのなら違和感を持たないだろうから。

しかし占いを実用的ではないとして断ずるのは余りに尚早であろう。例えば「占いを信じてる奴は馬鹿」という人が時折いるが、その人に理由を聞くと恐らく「占いは当たらないから、占いを信じてる奴は馬鹿」という答えが返ってくるものと思われる。だがその議論展開は脆弱である。当たる当たらないは或る人の判断作用に大きく依拠し、同じ事象を見ても「占いが当たった」「占いは当たらなかった」の両者が並立することは可能だから。そして前者の立場を取る人は「占いは当たるから、占いは信じるべきだ」という議論展開が可能であり、この議論展開は「占いは当たらないから、信じてる奴は馬鹿」と同じ方略である。両者の背後には「当たるものは実用的、当たらなければ実用的でない、実用的であるものを選択すべき」という信条があろう。だが、上記のような占い結果における観察者の恣意性を考慮するに、「当たるものは実用的、当たらなければ実用的でない」という信条は破棄されるべきではないか。

ここで振り出しに戻るのも何なので、「実用的なものを選択すべき」という結論だけを残し、果たして占いは実用的ではないのか、と私はそのとき(=携帯を買うとき)考えた。それに関しては各種先行議論があるものの、少なくとも占いは一種のコミュニケーションツールとして働いていることは自明である。占いの話をするときは、語り手が自信の占いの結果を語ると同時、聞き手の占いの結果を聞くことが常であろう。このようにして占いは話の種となり、コミュニケーションを促進する。のみならず、両者は同じ占いを行わねばならず、同じ占いを行ったことに対して、より抽象すれば、同じことを行ったことに対して、話し手と聞き手は連帯感を抱くことすら可能である。このような促進や連帯感は占いの効用であると言えよう。

故に占いは、占いの結果の当たり外れとはまた別のレベルで実用的と認められねばならず、なるほど、携帯の画面に表示されるのが「天気もしくは占い」というものは、実用性という理にかなうものだったのだ。両者は、その判断基準を別として、実用的なのだ。

だから私は「天気でお願いします」と即座に言ったのだった。なぜなら占いの話をする人というか友達がいないから。上の議論の方法では、話し相手が居ない人にとって占いはやはり実用的ではないのだから、それは仕方がない選択だった。私の選択肢はもとより一つしかなかったのだと思うと、少しだけ悲しくなった。