らき☆すたの歌詞

機会あって『らき☆すた』OP、『もってけ!セーラーふく』を視聴することができた。正直よくわからなかった。

例えば歌詞は文にさえならない単語の羅列である。数人のキャラがそれぞれ自分勝手に喋っているのであればそういう(意図的な)ものとして理解可能であろう。実際途中で「各人が思い思いに喋る」部分は挿入されていたが、それに対してはポリフォニー性とか言っておけば、ああなるほどね、みたいな感じになる。しかし他の部分はどうか。『らき☆すた』の場合は何人かの少女らが常に同じ歌詞を歌い続ける。あたかもそれに意味があるかのように。しかしどう聞いても単語ばかりであり、意味的な繋がりも音韻的な繋がりも強固ではなく、意味伝達を放棄したような思いつきの単語の羅列にしか聞こえない。そんな歌詞を、何故皆で同じ音域で歌うのか。

類似した歌詞として、近くではコードギアスのOPであった『解読不能』が挙げられるかもしれない。しかしあれはあれなりの解読しやすさがあったと思うのだ。例えば夏葉さんが解説していたような方法で。

もちろん、連続した単語しか呟けないような、ある失語状態に陥る精神状態があることは解る。どこかのロックでも似たような試みはしているかもしれない。でもそこには一種の必死さがあったはずだ。叫ぶとか、呟きとか、そういう表出の形でその必死さは現れるものだと思う。でも、『らき☆すた』の彼女らの声はあれほどまで明るい。その理由が解らないから、こうした仮想ロックとの類似性から解釈することもほとんど不可能だと思われる。

らき☆すた』の場合はいまのところ理解のきっかけをつかめない。例えば「そうした散漫とした単語によるコミュニケーションが現代の女子高生のリアルな会話なんだよ」という理由付けも可能だろうけれど、いやそーじゃねーだろ、と思う。みんなで一緒に歌えばなんでも楽しい、というわけでもなかろう。

まぁ、女の子数人が楽しそうにハモってるのを聞くだけで俺のような視聴者は幸せになれるので、そこに可愛い女の声があるというだけで、幸せの理由としては十分なのかもしれない。俺が幸せになれるような歌詞に意味なんて必要ないのだ。いやそもそも言葉である必要すらない。歌詞を聞き取る必要なんて全くないし、歌詞カードを書く意義すらもない。歌声は音であり、その音に意味を求めることに価値があるのだろうか。まるで、(意味のある)歌詞を求めた時点で負け、というゲームをけしかけられているような感覚だ。それはつまり、よくわからないのが正しいと言われているような、そんな。

だったら、ただ可愛い女の子の声だけがあればいい\