自分個人のコミュニケーション能力の改善策に関する覚書 (1)

昨年、コミュニケーション能力が低いことを指摘された。
コミュニケーション能力が皆無なわけではない。日常業務を滞りなく行える程度にはコミュニケートできている。ただ、上手というわけではないのだろう。自覚はある。たとえば、遠慮をしているだとか。距離を置きすぎるとか。冗談を言わないとか。そんなことを言われたように記憶している。その背後には、傷つけたくないだとか、傷つきたくないだとか、その種の気持ちがあるといえばあるのだろうが、しかし、ある程度の社会人として生きていくためには、もう少し、コミュニケーション能力を向上させることも必要だろうと思う。
だからといって、「遠慮しない」「距離を狭める」「冗談を言う」といったような、現在の行動における問題点をそのまま反転させたような解決策が通じるようなものでもあるまい。そもそも、コミュニケーション能力を向上させるとは、弱点の補強であると同時に、その他の性質の全体的な強化でもある。皮相的な解決策は他の性質を下げてしまうことに繋がりかねない。
考えを進めるため、弱点として挙げ連ねた部分を正しいとしよう。つまり「遠慮する」「距離を置く」「冗談を言わない」を弱点だと認識する。これらの弱点に対する補強を行わねばならない。その場合、「遠慮する」という行為はそもそも何を原因として起こる行為なのだろうか。もし「遠慮する」という行為の裏側に共通する原因が存在するのであるとすれば、「遠慮しない」という解決策よりも、当該原因に対する解決策を提示したほうが好ましいと思われる。ここで遠慮するという行為が発生する事例を思い浮かべてみる。すると帰納的に、「何かしらの状況に対して、二者間もしくは二者以上の間で何かしらの意見の相違があり、そして意見を迅速に撤回する」といった場合を一般的に「遠慮する」と名状する場合が多いのではないかと思われる。反省してみればこのような状況において、確かに意見を撤回した経験があった。この場合、こうした「遠慮する」という行為が発生する原因としては、おそらくは「自分の意見に対する自信のなさ」や、「相手の意見に対しての食い付きの悪さ(=理解の浅さ?)」といった原因が挙げられるだろう。であるとしたら、自分の意見に対して自信を持つにはどのようにすればよいのだろう。
自信のなさであればことは簡単だ。自信がある言説を用意すればよい。自らの意見の立論過程を整備し、反駁の余地をなくすことによって、自らの意見の撤回頻度は少なくなるだろう。これがすなわち、遠慮するという行為の頻度を少なくするのではないだろうか。同様に、相手の意見に対して自らの意見を迅速に撤回することをなくすには、その迅速さの軽減のため、相手の意見の立論過程を問いただすのはどうだろうか。結局のところ自分の意見を撤回することになるかもしれないが、しかし、撤回のスピードは弱まるはずだ。表面上のことかもしれないが、こうすることで「遠慮している」と他人に映ることは少なくなるのではないか。
これら対策の共通点としては、意見という結論に対する立論過程に対する対策であるのではないだろうか。その場合、これまでの自分というものは、おそらくそうした過程に対して興味関心の度合いが低かったのではないか。今年はまずそれを改善することから始めるのはどうだろうかと思った。
他の弱点に関しては、またおいおい考えよう。