目的志向、仮説思考

mixiに書いたものに反応してもらえたよ! よかった!

ちなみに、こうした人間には「勉強ってどうやってやってる?」と質問することが多いのだが、回答は以下のようだ。

「授業だけ寝ないでがんばってれば、あとは一夜漬けでしょ。暗記しなきゃいけないところと、そうじゃないところがあるから、暗記するとこだけ一夜漬けでいいし」

「勉強? 家で? あんましたことないです……」

「ノートじゃないすかやっぱ。あー、ノート見てワケわかんなかったら自分でまとめなおします」

「高卒の資格さえとれればいいってわかってたから、赤点すれすれになるようにしか点数とってなかったよ」

 共通している要素は「最初から点数をとる方法を理解していて、それにあわせてしか勉強していない」ということ。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090118/1232254355

で、このあたりを読んで。

まとめてみると、「勉強する」という結構抽象的なものを「点数を取る」という具体的かつ計測可能なものに入れ替えることで到達点を明確にし、さらにサブゴールに分けることも可能にすることな形の目的にすることで、段階的な目標を達成する。それこそ目的志向とか仮説思考とか呼ばれるものじゃないでしょうか。明確なゴールがあって、それに到達する方法を考える、と。その意味で、ある種の頭のよさは、その種の思考ができている人、だと言えると思います。

でここから個人的な考え。そうした「ある程度」のレベルまでにはいけるのだろうし、それは否定しない。その文脈で、凡人をある程度使える人材にする、という方法論として仮説思考やフレームワーク思考というのは認めてもよいと思う(個人的にはかなり嫌いだが)。

だが、用意する仮説がとことんイケてないやつやフレームワークの無茶苦茶な使い方をするやつがいる。たとえばプログラミングでは、用意されたライブラリの使い方が変なやつはいっぱいいる。ビジネスでは、プランニングの才能が全く感じられないやつがいる。ブログでは、書籍の引用が下手なやつがいる(そもそも読んでる書籍がイケてないというのもあるが)。そうしたとき、仮説やフレームワークに逆照射される形で、もはや「センス」としか名付けられない何かが現れる。そのセンスこそが一つの頭のよさへのヒントだと思う(ただしセンスは頭のよさそのものではないとも思う)。

それに気づく程度の人はいくらでもいる。しかし、そこから対応策を考えるときにもまた頭のよさが出てくるだろう。たとえば「センスを身につけるために本を読もう」だとか「街に出てセンスを体得しよう」とした時点で凡愚だ。だったらそこでどうすればよいのだろうか。うーん。私は頭が良くないからどうすればよいのか分からない。

「それではない何か」ではない、何かしらの答えがほしい。しかし、そもそも頭の良い人は頭の良さというものは考えないだろうし、このエントリを読んだ時点で苦笑されるだけだろうな。