天気と占いの実用性

この前携帯を買ったとき、「画面に表示されるのは占いがいいですか、天気がいいですか」と店員さんに問われた。これにも驚いて言葉に詰まったので、あのときふと考えたことをメモしておこう。

驚きの原因は、天気と占いとが同列に語られていることにだった。そこでは二つの選択肢が与えられているが、しかし、選択肢自体が二つまで絞られている。大澤真幸なら選択前提と言うかもしれないそこで(『電子メディア論』など参照)、どうして天気と占いという選択に絞られているのかという疑問が湧いた。

もちろん、朝のニュース番組で天気と占いが報じられていることは知識としては知っている。その類似性からして、携帯電話に天気と占いの選択肢が与えられるのも当然だという向きもあろう。だがニュース番組の場合と今回の携帯の場合とは話が少し違う。なぜなら前者が非排他的関係にあるのに対して、後者は排他関係にあるから。「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という有名な夏目漱石の言葉があるが、携帯においては「占いと天気がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」。当然だが選べるのはどちらか一方であり、番組の流れの中で占いと天気が連続的に報じられるのとは話が違うというわけだ。

天気と占いとが並べられて論じられることに対する違和感の背後には、私自身の偏見とも言うべき、天気は実用的であり占いは実用的ではないというbeliefがあるのは確かだろう。「画面に表示されるのはTOPIXがいいですか、為替の値動きがいいですか、天気がいいですか」というのなら違和感を持たないだろうから。

しかし占いを実用的ではないとして断ずるのは余りに尚早であろう。例えば「占いを信じてる奴は馬鹿」という人が時折いるが、その人に理由を聞くと恐らく「占いは当たらないから、占いを信じてる奴は馬鹿」という答えが返ってくるものと思われる。だがその議論展開は脆弱である。当たる当たらないは或る人の判断作用に大きく依拠し、同じ事象を見ても「占いが当たった」「占いは当たらなかった」の両者が並立することは可能だから。そして前者の立場を取る人は「占いは当たるから、占いは信じるべきだ」という議論展開が可能であり、この議論展開は「占いは当たらないから、信じてる奴は馬鹿」と同じ方略である。両者の背後には「当たるものは実用的、当たらなければ実用的でない、実用的であるものを選択すべき」という信条があろう。だが、上記のような占い結果における観察者の恣意性を考慮するに、「当たるものは実用的、当たらなければ実用的でない」という信条は破棄されるべきではないか。

ここで振り出しに戻るのも何なので、「実用的なものを選択すべき」という結論だけを残し、果たして占いは実用的ではないのか、と私はそのとき(=携帯を買うとき)考えた。それに関しては各種先行議論があるものの、少なくとも占いは一種のコミュニケーションツールとして働いていることは自明である。占いの話をするときは、語り手が自信の占いの結果を語ると同時、聞き手の占いの結果を聞くことが常であろう。このようにして占いは話の種となり、コミュニケーションを促進する。のみならず、両者は同じ占いを行わねばならず、同じ占いを行ったことに対して、より抽象すれば、同じことを行ったことに対して、話し手と聞き手は連帯感を抱くことすら可能である。このような促進や連帯感は占いの効用であると言えよう。

故に占いは、占いの結果の当たり外れとはまた別のレベルで実用的と認められねばならず、なるほど、携帯の画面に表示されるのが「天気もしくは占い」というものは、実用性という理にかなうものだったのだ。両者は、その判断基準を別として、実用的なのだ。

だから私は「天気でお願いします」と即座に言ったのだった。なぜなら占いの話をする人というか友達がいないから。上の議論の方法では、話し相手が居ない人にとって占いはやはり実用的ではないのだから、それは仕方がない選択だった。私の選択肢はもとより一つしかなかったのだと思うと、少しだけ悲しくなった。