日々の気づき

最近は映画ばかり観てます。あと時々ゲーム。ギャルゲとかじゃなくFPSCall of Dutyとか Battlefield とかHaloとか。あれヤバいわ。快楽がヤバい。最初わけわかんなくて投げ出しましたが、何作もプレイしたおかげで、オンラインでもそこそこ上位の成績をとることができるようになりました。そろそろユリイカで特集組んでもいいんじゃないでしょうか。日本だとそれより先にモンハンか。でもモンハンはいまいち合わず。ソロぷれいばっかりだったからというわけじゃなく、あの武器合成とモンスター狩るのが面倒だったから。
そういえば最後の美少女ゲームリトバスのような気がします。あ、ラブプラス3DSだ。マナカを彼女にして放置中。彼氏力の維持とか無理っす。
お医者さんから絶対安静と言われ暇なので、できればまたブログ書きたい次第。

目的志向、仮説思考

mixiに書いたものに反応してもらえたよ! よかった!

ちなみに、こうした人間には「勉強ってどうやってやってる?」と質問することが多いのだが、回答は以下のようだ。

「授業だけ寝ないでがんばってれば、あとは一夜漬けでしょ。暗記しなきゃいけないところと、そうじゃないところがあるから、暗記するとこだけ一夜漬けでいいし」

「勉強? 家で? あんましたことないです……」

「ノートじゃないすかやっぱ。あー、ノート見てワケわかんなかったら自分でまとめなおします」

「高卒の資格さえとれればいいってわかってたから、赤点すれすれになるようにしか点数とってなかったよ」

 共通している要素は「最初から点数をとる方法を理解していて、それにあわせてしか勉強していない」ということ。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090118/1232254355

で、このあたりを読んで。

まとめてみると、「勉強する」という結構抽象的なものを「点数を取る」という具体的かつ計測可能なものに入れ替えることで到達点を明確にし、さらにサブゴールに分けることも可能にすることな形の目的にすることで、段階的な目標を達成する。それこそ目的志向とか仮説思考とか呼ばれるものじゃないでしょうか。明確なゴールがあって、それに到達する方法を考える、と。その意味で、ある種の頭のよさは、その種の思考ができている人、だと言えると思います。

でここから個人的な考え。そうした「ある程度」のレベルまでにはいけるのだろうし、それは否定しない。その文脈で、凡人をある程度使える人材にする、という方法論として仮説思考やフレームワーク思考というのは認めてもよいと思う(個人的にはかなり嫌いだが)。

だが、用意する仮説がとことんイケてないやつやフレームワークの無茶苦茶な使い方をするやつがいる。たとえばプログラミングでは、用意されたライブラリの使い方が変なやつはいっぱいいる。ビジネスでは、プランニングの才能が全く感じられないやつがいる。ブログでは、書籍の引用が下手なやつがいる(そもそも読んでる書籍がイケてないというのもあるが)。そうしたとき、仮説やフレームワークに逆照射される形で、もはや「センス」としか名付けられない何かが現れる。そのセンスこそが一つの頭のよさへのヒントだと思う(ただしセンスは頭のよさそのものではないとも思う)。

それに気づく程度の人はいくらでもいる。しかし、そこから対応策を考えるときにもまた頭のよさが出てくるだろう。たとえば「センスを身につけるために本を読もう」だとか「街に出てセンスを体得しよう」とした時点で凡愚だ。だったらそこでどうすればよいのだろうか。うーん。私は頭が良くないからどうすればよいのか分からない。

「それではない何か」ではない、何かしらの答えがほしい。しかし、そもそも頭の良い人は頭の良さというものは考えないだろうし、このエントリを読んだ時点で苦笑されるだけだろうな。

自分個人のコミュニケーション能力の改善策に関する覚書 (1)

昨年、コミュニケーション能力が低いことを指摘された。
コミュニケーション能力が皆無なわけではない。日常業務を滞りなく行える程度にはコミュニケートできている。ただ、上手というわけではないのだろう。自覚はある。たとえば、遠慮をしているだとか。距離を置きすぎるとか。冗談を言わないとか。そんなことを言われたように記憶している。その背後には、傷つけたくないだとか、傷つきたくないだとか、その種の気持ちがあるといえばあるのだろうが、しかし、ある程度の社会人として生きていくためには、もう少し、コミュニケーション能力を向上させることも必要だろうと思う。
だからといって、「遠慮しない」「距離を狭める」「冗談を言う」といったような、現在の行動における問題点をそのまま反転させたような解決策が通じるようなものでもあるまい。そもそも、コミュニケーション能力を向上させるとは、弱点の補強であると同時に、その他の性質の全体的な強化でもある。皮相的な解決策は他の性質を下げてしまうことに繋がりかねない。
考えを進めるため、弱点として挙げ連ねた部分を正しいとしよう。つまり「遠慮する」「距離を置く」「冗談を言わない」を弱点だと認識する。これらの弱点に対する補強を行わねばならない。その場合、「遠慮する」という行為はそもそも何を原因として起こる行為なのだろうか。もし「遠慮する」という行為の裏側に共通する原因が存在するのであるとすれば、「遠慮しない」という解決策よりも、当該原因に対する解決策を提示したほうが好ましいと思われる。ここで遠慮するという行為が発生する事例を思い浮かべてみる。すると帰納的に、「何かしらの状況に対して、二者間もしくは二者以上の間で何かしらの意見の相違があり、そして意見を迅速に撤回する」といった場合を一般的に「遠慮する」と名状する場合が多いのではないかと思われる。反省してみればこのような状況において、確かに意見を撤回した経験があった。この場合、こうした「遠慮する」という行為が発生する原因としては、おそらくは「自分の意見に対する自信のなさ」や、「相手の意見に対しての食い付きの悪さ(=理解の浅さ?)」といった原因が挙げられるだろう。であるとしたら、自分の意見に対して自信を持つにはどのようにすればよいのだろう。
自信のなさであればことは簡単だ。自信がある言説を用意すればよい。自らの意見の立論過程を整備し、反駁の余地をなくすことによって、自らの意見の撤回頻度は少なくなるだろう。これがすなわち、遠慮するという行為の頻度を少なくするのではないだろうか。同様に、相手の意見に対して自らの意見を迅速に撤回することをなくすには、その迅速さの軽減のため、相手の意見の立論過程を問いただすのはどうだろうか。結局のところ自分の意見を撤回することになるかもしれないが、しかし、撤回のスピードは弱まるはずだ。表面上のことかもしれないが、こうすることで「遠慮している」と他人に映ることは少なくなるのではないか。
これら対策の共通点としては、意見という結論に対する立論過程に対する対策であるのではないだろうか。その場合、これまでの自分というものは、おそらくそうした過程に対して興味関心の度合いが低かったのではないか。今年はまずそれを改善することから始めるのはどうだろうかと思った。
他の弱点に関しては、またおいおい考えよう。

景気対策と働くインセンティブ

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20090104#1231107394
記憶が正しければ『経済学的思考のセンス』に似たような問題が書いてありました。あくまでインセンティブという側面からですが。ご興味があればどぞ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121018249/

マカー

20代後半文系男子にはマカーを見下す文化が蔓延しているので、これは中々にしんどいのではなかろうか。
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080719

確かに。
AppleMacではなく、その使用者であるマカーを見下す文化が海外でも(ごく一部に)蔓延していたような。
ちなみにあと、「Mac Bookを教室に持ってくる人は大教室の前のほうに座りたがる」という印象もあったり。

失われた恋

髪の毛を切って、「失恋でもした?」と言われて、面食らったので、「ええ。あらかじめ失われた恋をしました。それは対象のない失恋と言えるかもしれません」と答えた。個人的には良い返し方だと思ったのだけれど、あまり理解してもらえなかったので、とりあえず失恋ということにしておいた。Freud. その恋はあらかじめ失われているがゆえに満たされることはなく、対象がないゆえに克服されることはない。

何かしらの変化には何かしらの理由が必要らしい。理由は要請されるのだ。それも他人によって。他人の欲望がまさに自分の欲望となり、自分が構成される瞬間に出会った。そうして私の過去は未来において作られるのだろう。「それではまた明日」と言わんばかりに。

「人は誰かを守るために戦う」

その命題が常にfalseだとは言わんが、常にtrueではないことは、『バルカン超特急』を観ればわかるだろうに、と思った。人は思想とかなんかよくわからんものののために戦えるし、別にそれが駄目なことだとは自分は思わない。「誰か」という具体的な何かに拘る姿勢は、まあなんというか、面白くないビジネスマン的であるなぁ、と思わざるをえない今日このごろである。