君は弱いと言うけれど、君の弱いというのは、弱いという言葉を使っても差支えないという意味だろう。実際弱いんじゃないだろう。つまり頭の弱さに過ぎないんだろう。

何かにつけて、「自分は弱い」「自分は強い」という種の言葉を聞くのだが、そのたびにふとよぎる言葉が以下。

「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差支(さしつか)えないという意味だろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。...」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/775_14942.html

その当人が弱いか強いかはさておき、弱い、ということを表明するassertiveな部分、その自己主張たるや強さではないか、と時に思う。
表明する、ということには何かしら主張が含まれている、というperformativeな面は否定できない。言い換えれば、「自分は弱い」というconstativeな面だけではなく、「自分は弱い、だから○○しろ」という命令を含んだ形で他人には聞こえる、聞こえてしまう。こういうところに対して無頓着であり続けるのならば、その鈍感さはある意味での強さだ、ともいえる。そうして自分で自分、もしくは他人への愚痴を呟く姿を見れば、おそらく助けは必要ないのだろうな、と判断してしまう。
この判断が正解なのか不正解なのかはさておき、自らで自らを語ることの難しさ、というのにはほとほと手を焼く。「好きな食べものは何?」と聞かれて答えられない程度には。