少し前に参加したカラオケについて

歌を歌うことは確かに気持ちのよいことだと思う。

声を出す、というのは声帯を震わせるということで、その概念を押し広げれば身体を使うという行為とも言明可能だ。更に抽象すれば歌唱はスポーツと同義になる。スポーツが気持ちよいように、歌を歌うこともまた気持ちよいものであることもこうして理解が可能になる。またリズムに乗るという行為は感情的な面をprimeする効果があり(psychology of musicの論文などを参照せよ)、宗教儀式などにおいても多用されている(anthropology of religionの本などを参照せよ)。これらの事実から、歌を歌うことは楽しいこと、という結論は推測できるものの、しかし、歌を歌うこととカラオケとは直結しない。

カラオケとは通常、ある狭い閉空間において数人の人間が集まり、そのうちの任意の一名もしくは少数名が歌を歌う、という行為をさすと考えてよいだろう。そのカラオケが、コミュニケーションのツールとして扱われているという文章をどこかで読んだことがある。それが不思議だった。例えば、一曲五分として一時間で12曲ならエンタテイメントとしての効率が悪いように思われ、更に歌を歌わず待っている人は非常につまらないのではないか、という疑問が頭を擡げる。しかし実地で体験してみた結果、歌を歌っているときは、皆、次の曲を選んでいるのだった。

もちろん、この事実から、人は他人の歌を聴いていない、という結論が導けるはずもないが、しかし、集中して音楽を聴くという環境とは違うことが明白に解る。そもそも他人の歌声を聞きたいのならばプロの歌声を聴けばよいのだろう。つまりカラオケにおいて聴くという行為はほとんど重要視されていない。

ここまで書いてきたところから、カラオケは自己満足を多人数で行っており、多人数なのは互いの経済的利益のためだ、という結論に近づいてしまうが、もちろんそうした側面も認めるものの、やはりカラオケというものは歌だけに注目していたら解らない類の楽しみなのだろう(歌う、ということだけに絞れば、OLが一人でカラオケに行きストレス解消を行っている、というニュースを想起する)。だから他の要素にも気を配る必要があるのだ。

例えば実体験を通して興味深かったのは、あの閉空間の狭さだった。声を響かせるためとはいえ、もしくは一定のスペースに多くの部屋を作るためとはいえ、一グループに宛がわれる部屋は酷く狭い。その狭い空間に多人数が入るのだから、感覚的にはもっと狭い。そんな部屋で多人数が一緒の時間を過ごしていくというのは、ある種、石川忠司が指摘するような車内空間の特異性に通じるものだろう。近代における対話というものは、顔と顔とを突き合わせて会話する、というものが通常であり、そうすべきだという観念が仮構されているが、そうしたものはほとんと虚構であり、恐らく昔から、大概の場合の会話というものは、本気で取り交わされるようなものではなかっただろうと思われる。

カラオケではそうした特異的な(特異的と見做される)会話が促進され、会話をしているでもなく聴いているでもない、そうした中間的な状態が維持され続けると同時に、一部の人が大いに盛り上がることすら可能だ。なぜなら身体を使うということによってテンションが高まるから。これはカラオケにおいてもバーにおいても、大音量でBGMがかかっているため、声を大にして会話をしなければならないことにより身体をより激しく使うことにも繋がるだろう。もしくは大音量のBGMが会話を遮るために、会話の際には不可避的に身体同士が非常に密接することや、身体の接触によるコミュニケーションを行わねばならないこと、などを二次的に引き起こし、それがまた特異な空間を作り上げるに足る。これらは先ほど例に挙げた車内空間とは決定的に違う差異ともいえる。

そしてなるほど、カラオケが合コンの場に活用されるのも頷ける。身体の接触は親近感を増すから。言うなれば、カラオケは動物的な営為が促進される場だ。あの場にいる限り、ほとんど何も考えずとも良い空間が形成されている。むしろ考えることは阻害されるからこそ、それが楽しいのだ、とも言える。何もかも忘れたい、というときに非常に適当な場所であり、本当に盛り上がれる人はああいう場が愉快痛快になることも理解できる。そのノリにはついていけない場合も多いが、正直、そのように盛り上がれてうらやましい部分がないこともない。