時間を、時間を頂戴

タイトルのような言葉だったかは忘れたが、イーガンの某作品の中の最後の言葉である。

まぁまさにそのような状況で、自分に時間さえあれば多くの能力を伸ばすことができて、自分のやろうと思ったこともすべてできるのに、と思い始めると泣きたいぐらいにもどかしい。別にそれは達成して嬉しいとか仕事を終わらせることが楽しいとか、というわけではなく、単に到達できないこと自体が悔しいのである。到達できない、というよりも、到達するには「まだ」足りない、という状況だからこそ、余計に歯痒く悔しい。そして悔しさを乗り越えたその先には更なる悔しさがあることも僕らは知っている。

と、現実逃避の愚痴ついでにラディゲの『肉体の悪魔』を読了。最後のほうは静かに終わっていくのに怒涛の展開のよう。分かっているけれどやってしまう、というある種の衝動とも呼べるものを肉体の中に棲む悪魔という名状する瑞々しさ。それは端的に分かっていないだけ、と断ずることも可能なのだが、この種の青春、つまり16歳の子供が人妻に恋をしてしまい、堕落してゆく、という展開が現実的かどうかと言われれば、きっと現実的だと答えるのだろう。リアリティとか現実とか、そういう言葉があって、現実的か否かという点であらゆる作品を評価できるのだとしたら、おそらくそれは間違いであるものの、丁寧な筆致で描かれる心情というものが、つい「ありえそうだ」と思ってしまうその説得力には感心せざるを得ない。

これが現実だ、これが人生だ、と一言で断罪してしまう言葉はたいてい嫌いであって、その嫌悪の原因は単にそれが間違いだから、反論可能であるから、という点におそらく存する。「いや、そうじゃないぜ」と言ってしまえる事柄に対しては常にそう自ら言う、ということができずに、その言葉を発したのだとしたら単に自己反省能力が足りない程度に愚鈍だということであり、また、あえてその言葉を発したのだとしたら、その「あえて」の矜持がない限り言葉に対する責任感がないといえる。責任感を持ちつつも発言したら、あとは態度の問題であるし、その発言内容の問題である。

現実というものは、「辛いもの」に対して名指されるときに使われるだけだとするのなら、それこそ日々の現実を辛いものとして捉えなければならないだろう。一時でもそれを忘れるぐらいなら、「現実は辛い」などという言葉は吐けないはずだ。少なくとも私にとっては。許すぐらいなら怒らなければ良い、というのはおそらく正しい。自らの正しさを敷衍させるのが今の時代だというのなら、自らの発言を恒常的に真でありつづけさせることぐらい、自分で守り続けるのが正しい態度であると思う。

しかしまぁ、人が怒りや喜びを向けるほど価値のある事柄は、思っていたよりも少ないのではないだろうか。帰り道にそんなことを思った。